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静かに感じてゆっくり開く
以前、「受容」という言葉は
なんとなく温かく柔らかく育まれるような
ソフトな印象のエネルギーを感じていた。

しかし体験を通しての学びが深まる中で
それはもっと懐深い、パワーとは異なる”力”なのだと感じられてきた。

受容と成長は同義語だと言っても言い過ぎではない、
そんな風に思えてきた。





『 解き放たれる魂 』 という本がある。著者は穂積純さん。高文研。

副題に
「子供時代の呪縛からの解放  性虐待の後遺症を生き抜いて」 
とある。


この夏、穂積さんの本で私は自分の虐待の心の傷を見つけた。

虐待の質は異なれども、心の傷は殆ど同じ痛みを辿るのだと知った。
そして自分が何に苦しんでるのかが分かりホッとした。

やっと自分の苦しみを苦しめる、そう思った。

何か分からない心の暗闇の理由が分かった。
なにと向き合えばよいのかが理解できた。

それは、ずっと手を伸ばしても届かなかったものに、
やっと指先が触れたような感じだった。

しかし

この2ヵ月半ほど、読みすすめられなくなっていた。
本は気になるが手がとまっていた。

けれども

ここ最近の気付きを思うとき、
今日は改めて自分の奥に在るなにかを向かえに行こうと思った。


できれば
苦しいものなど見ずに前に進めたらどれほどいいだろう、と思う。
そして
未来を見る事のほうが大事なのだと思っていた時もあった。

けれども
言葉にならぬ時代の痛みは、どうやら一度言葉にしてやるのが大事なようだ。

未言語の時代 なんていう言葉が浮かんだ。
未言語という言葉もあるのだろう。

私が勝手に自分に名づけた未言語の時代とは、
言葉を持たぬ感覚優先の時代のこと。

乳児や幼児。
自らの意思を言葉にする能力を獲得する前の発達状態。

そういう時の痛みというものは、
どうやら一度言語化して理解したほうが良いような気がする。

そうでないと無意識的に、感覚だけが言葉を持たぬまま
行動に深く影響を与えている感じがするのだ。

その無意識的インパクトが強く、言葉で意識的に心を探しに行っても、
どうもそぐわない。

だからただ感じる。
その心の痛みと重みを感じて、大人になった自分が言語化する。
その時にどうやら昇華されるように思うのだ、その未言語の痛みが。

苦しみに向き合うのは
その後が楽になると知っているからだ。
原因を求めていくのではなく、感覚に寄り添うということ。

無理をする必要はないが、いつか受容する日が必要のようだ。
人によっては。

わたしは、その「人」なのだろう。

苦しみを楽にするのではなく
苦しみをうけとってやるのだ。

そのために学びを深めてきたのだとも思う。

楽になるためというつもりでいたが
本当に楽になるというのは、苦しみを受容できるということなのかもしれない。

3年ほど前に買ったハコミセラピーの本を手元に置いて。

あらためて私の心に触れる時間が来たようだ。


自分ひとりでは触れられなかったものに
手を伸ばす気持ちが養われたのだろうか。

未来に進もうと思えば
未来に進もうとするのをやめる

意識的な努力は、無意識の力の前では
厚い壁を手で押すように非力さを感じることもある。


そしてその努力を手放して、ここにあるものを受け取ってゆく。

手放しで委ねて受け取ってゆく。

受け取ること。

それも 力 なのだ。


前に進む希望の種が
厚い壁を押すことをやめて
壁を受け入れた時に
開くこともある


変わりたい
変えたい

それが焦りなのだと認めて

今までと同じ努力の方向では
これ以上進まないことを静かに受け入れて
自らの中にある何かに対峙する

戦うのではなく
静かに柔らかな沈黙のように
感じながら



感じること



感じることを



開くのだ



傷ついていたときには

開けなかったのものを



傷ついた日々を

いま

柔らかく




安心して


傷つくがいい





私の中で


感じたままに
by olivelight | 2009-10-13 15:13 | 感じたままに
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