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依存と片付け
私は時々どうしようもなく悩むと
ネット占いにお金を払って
ホッとしていたりした

315円とかだけど、何回かやったりして
余裕があるわけではない
それでもしてしまう時がある

自分の中で何も見出せないで止まる時
心がとにかく言葉を欲する

それが私自身に送られたものであれば
なおさらに求めた

そういう自分が受け入れられなくもあった





飾らずに
ただそんな自分がいたことを、いや、いることを認めてみた

どんな自分も自分なのだし

カッコつけて生きるわけにもいかない
この自分のどこに見栄がのこっているのかと思うが、
それでもまだ自分を恥じていたのだと
小さな事柄の中に気がつく

ひそやかに
人事のように
わたしを眺めて
それもまぁいいんじゃない、などと思いながら

一つ一つの小さなことが重みとなって襞(ヒダ)となって
少しづつ自分を押し隠していた


押し隠し

いったいそれで何が得られると言うのだろう

いったいそれで何を得ていたのだろう



人生を受容するということは
なりたい自分になって、そうなった自分を認める
という以前に
存在そのものへ祝福のような
命そのものへの幸福の願いのような
土台が必要なのではないだろうか

なりたいものになるための変化も
在りたいもので在ろうとする行動も
生きるという土台の上にある命の形なのではないだろうか

地球に海があり大地があり植物や動物やたくさんの命が生まれるように
なにかに成る、なにかとして在るというのは、生命の土台に支えられている


命の土台に触れられること
そのためにもがくことのなかに
依存という行為もある気がする

だから依存的行動だけをとがめても
命の土台に繋がるたのことが見つからなければ
依存との葛藤だけに時間とエネルギーを注がれる


そして疲れ果てている
いつのまにか
そおっと


それが
片付けられない、
いや、犬走りを片付けたのだから
片付けないことを選んでいたのかもしれない
心と身体が


このままの自分をただ認める


人生のかけら
生きづらさの中から生まれる表現
ゆっくりと眺める

どこにもうそが無いわたしを

そして
むしろそれが
私のかけらだと気がつく



たとえ片付けても
たとえ依存的に言葉を欲さなくても
わたしはこの自分を覚えていよう

変わることで変わってしまう自分よりも
変わらないことで変わらない自分を
どうやら私は大切にしていたらしい


この自分を尊重して歩む

地味かもしれないが
どうやらそれが私の
夢への歩き方のようだ



私の中にしかない答えを
私は気がついているらしい


変わろうが変わるまいが
片付けようが片付けまいが
依存であろうがなかろうが

私は私であったのだ


そのような命の土台に
まずは繋がりたいと
この心と身体は叫びつづけていたのだろうか




わたしは

わたしの声を

いま

聴いているだろうか





わたしは

あなたの声を

いま

聴いているだろうか








どんな状態であっても


命という根源をもつ


その声を
by olivelight | 2009-11-28 13:43 | 片付け
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