S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
カテゴリ
ライフログ
『 限りなき永遠(とわ)の愛 』
たしかこういうタイトルだったような気がする。
サザンの曲。
たまに音楽の神様のようなものが降りてきて曲ができることがあると、
桑田さんが言っていた。
この曲もそういう曲だったと何かで聞いた覚えがある。

ここしばらく聞いていなかったが、ふと聞きたくなった。


あることに今朝気がついた。

自分の無意識にあった思い込みのパターン。





当たり前だと思っていることに気がつくことはなかなか簡単ではない。

あまりにも「当然」だと思っていて、見直しをするということさえないくらい、
その思考と自分が密接になっていること。

そのようなことに気がつくには、自分を観察する学びと努力がいる。

そして問題思考にあえて飛び込む勇気も。
解決のため、ではない。
解決をしようと思えば、
今までの「解決」と認識しているパターンに滑り込んでゆく。

問題を問題のまま問題として心身で感じる覚悟。
それは苦しみを避けようとするのとは逆に感じる。

今までのパターンと異なることをしょうとすると心身から抵抗感が生まれる。

その抵抗感こそがメッセージだと受け取る。
問題に対して身体感覚が声なき声で伝えているもの。

そこを汲み取ってみた。

あえて苦しむのだ。




わたしは「変わり」たかった。

沢山の学びで色々な苦しみの背景を知った。無意識という叡智。

だから前よりも自分を追い詰め苦しめることはない。

だからこそ迎え行くのだ。いや、訪れたものを迎えるのだ。
抵抗という心の声を。

そしてじっとした葛藤の中で掴んだのだ。
フワリと落ちてきた羽を手に収めるようにそぅっと。

当たり前だと思いこんでいた無意識の葛藤の形を。


片付けたかった。
片付けて変わりたかった。
新しい自分を生きたかった。

新しい気付きの中で、癒されるたびに、
「私は動けるのではないだろうか」 と思った。

風邪を引き、心身が淀みながらまどろむ

でもやはり動こうと思うと止まった。
涙が出る。
厚い動かせない壁を押しているような気持ち。

そしてその苦しみに入ってみた。
責めることも追い詰めることもなく、観察しながら苦しむのだ。

するとやがて

片付けることで変化しようとしている自分を見つけた
片付けて新たな空間で気持ちよく動きたいと思っている自分を見た
新たな人生の空気を吸っているであろう、という自分を



しかし

それが私を

止めていた



片付けることで変わろうとしていた


それが止めているものだった



それは意識的な私の願いだった
前向きに気持ちよく生きている自分
新たな心境で社会と関わり自分にできることで貢献をして
生きているということを味わいながら新鮮に
そんなビジョン



そう願って、いったいなにが私の足を止めているのか



けれども

それが分かったのだ





わたしは


変わることを


望んでいなかった







今ここで生きている自分を肯定して
そのありのままを認めて生きていくこと

この自分を腹をくくって受け取り
この人生を受容し

何かを変えて良くしようとするのではなく

なにも変えなくとも
今を生きている自分を信頼する
その人間としての本質的な包容力


わたしは無意識に在る私から向き合い続けられていたのだ


「このままの自分を本当に自己受容せよ」 


意識の私が真摯に人生を向き合うのなら
無意識の私もまたそれに対し一歩も引かぬ迫力がある気がした


何があっても今ここで変わる決意をしているのは
無意識の私なのではないだろうか?




わたしは学びを深め本質的な解決や変化を望みながらも
実際は自分の問題から逃げていたのかもしれない。

以前、カウンセラーの友人が言っていた。
その歯に衣着せずに放つ言葉は鋭く学ぶことが多い。

「ワークに依存せずにちゃんと苦しんだり向き合ったりするほうがいいって思うよ」

あるセミナーに参加しての言葉。
その時わたしも同感するエピソードがあったので、至極同意した。

ワークへの向き合い方が問われるのだろう。

受け入れがたいものを変化させて受け入れやすくするためでだけではなく
恍惚的でスピリチュアル的な至高体験でもなく、
今ここに在る自らに向かい合うという気持ち。


問題を人生の成長テーマの一つと言ってもいいだろう。

自分が望み描いた良い者になろうとするだけでは、
問題を通して成長しようとするその人ならではの成長プロセスが
かすむように思うときがある。

奥深く味わい深くユニークで誠実な、その人間的な在り方の表出が。



子どもの未来や教育には関心がある。
自分の回復の体験を必要とする人に伝えたいとも思う。
まだプロセスだけれども、それでも。

変化を望まないとは希望を持たないということではない。

希望も解放も回復も人間的な愛も、それは全て
ここにいる自分の受容から始まる。

ここにいる自分とは、ある視点から見れば問題だらけの自分。
しかしそれは
成長する無意識テーマを受け取っているプロセスにいる自分ともいえる。

そう言えるのは学びのお陰だ。


片すことと、
自分が変化することと
新たに人生を歩もうとすることと
自分を肯定して生きることは
イコールではなかった


なのに私はそれを同じものとして捉えていた。

NLPで言うところのメタモデルの等価の複合観念だ。
二つの意味、文章が同じ意味のように結びついていること。

私で言えば、
・片付けることで変化が生まれる。
・片付けることで人生が新しくなる
・片付けることで自分を肯定して生きる

であろう。

これは一つの思い込みだが、本人はあまりにも自然で当然だと思っているので気がつかない。
しかし悩みやテーマは限定された思考から生じやすい。
当たり前すぎて他に選択肢をみつけられない状態。


わたしはこのことに身体ごと苦しんでみて見えてきた。
深い思い込みは思考だけでは見つからないようだ。

そして 『片付けること』 と 『自己肯定』 することは全く別なのだと分かった。

むしろ片付けられない自分をどれだけ自己肯定できるのか、という感じだろう。
だがそれは慌てることではないのも分かる。


ただ今は 「別なのだ」 と分かるだけでいい。


片付けることで自己肯定をしようとしていたから動けなかったこと。
それは自己肯定ではなく、むしろ片付けられていない自分を否定していたこと。
意識では良かれと思ったことが、
無意識では自己否定になっていたから、ピタッと身体が動かなくなっていたこと。

見えればなるほどなと思う。


分かっても分かっても
先が見えないことに委ねきれない
そんな葛藤が心をこわばらせる

けれど

その度に起こっていることが成長なのかもしれない

学びは学びらしい顔をしているわけではないことがある
そうだとするなら今わたしのプロセスが学びに他ならない

この人生のプロセスが

いまこの状態が人生のプロセスの深みだとしたら
どこか遠くにこたえを探しにいくことは
自分を見失うことなのかもしれない








今日は久々にサザンの 『 キラーストリート 』 というアルバムを聴いている。
しかも一曲だけリピートで。

 限りなき永遠(とわ)の愛 


なんとなくこの曲を聴いていると、
自分の手に負えないと感じる状態の部屋に
ふわりと柔らかいものが包むような
そんな感じがする。



歌詞のようにとても柔く




柔らかさが時に心を温め

動きたい気持ちをそっと支える


柔らかさが

自然と穏やかに吹く風を迎える


抵抗ではなく
柔らかく



「幸せの風を受けて」







この曲をもうしばらく聴いていよう
[PR]
by olivelight | 2009-10-12 14:52 | 感じたままに
<< 31. 受け容れること O... スーパーにて啓示を受け取る >>