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『嫌われ松子の一生』を昨日見た
楽天DVDを利用している。
見たいものがすぐ来る時はいいが、他の人も借りててなかなか順番がまわってこないと、DVDが送られてこなかったりする。

見たいものだけに絞って少ない本数を予約していたら、先月全然来なかった。
しかし料金は月ぎめだ。
来なかった分は翌月に回されるが、それとて月枚数は決まっていたと思う。

そんなわけですぐに見れそうで関心があったものを改めて予約登録した。

『嫌われ松子の一生』 はその中の一枚だった





コンスタントにこなしてみないと間に合わない、そんな程度にそれを見た。

しかし・・・・・

ここ最近私は自分の中にあった「依存心」を正面から見ていた。
それによって人生の謎々が解けてきている最中だった。

親への愛着と言う、子ども性が与えられたかったものを無意識に夢見て
その不足を補うために物事や人を求め続けていたこと。

心の不足を満たし
自分が満たされるために。

私の人生はそれだったと直視でき始めたところに、この映画を見た。

無意識的にあったその動機が浮かび上がると、
ドサリと重い砂袋が身体から落ちた気がした。
そしてその砂袋のがあった心の空間がポカリと空いた。

人を愛する意味も、人生の目標というものも、
今まで無意識にあった価値感が崩壊して
なにを動機にこれからどう生きてくのか、
それが全く空白になった気がした。

「私の愛は依存から来る執着だったのか」

相手を理解しよう、ラポールを築こう、協調や和解やバランスや
沢山の心理系のことやコミュニケーションに対する学びを深め
安易な依存心はもう持っていなかった。

分かち合う喜び、理解しあう共鳴、仲間との信頼、自己開示するオープンさ
物事の本質にあるギフトを理解する学びのあり方
自分の持っている思考のフレームに気がつくトレーニング

沢山の学びを重ねて体験を昇華して、
いわゆる目に見えるコントロール的な依存心からは卒業していた。

そのつもりだった。

いや、だからこそ、奥深くにあったものに手が届いたのだろう。

その学びそのものが依存心を満たすための行為だったという気づきに。

大事なものを盗み自分の人生を踏みにじり傷つけた犯人を捜していたら
それは「自分だった」という心境だ。

呆然ともするだろう。

成長を遂げていると思っていたものが、
むしろ奥深くあった依存心を満たすために
巧妙にその手段を受け取っていたとするなら。

「愛されたい、認められたい、自分を受け入れられたい」

そしてそれがある限り、私は依存心の囲いからは出れないと分かった。
他者を愛していないからだ。
他者を愛する理由さえ、自分が満たされるために、なのだから。

意識的な学びが深まるほどに動けなくなった自分を振り返る。
無意識の叡智は私が気がつくまで、症状を生みながら止めてくれていた。

自分だけが満たされる生き方を
本当に望んでいるわけではないということを。

もしもその隠れた動機に気がつかないまま動いていたならば
受け入れて愛することに限界が来るのは容易い。

どんな大きなビジョンを立てたとしても、
全体視野でそれが素的な夢に見えても
大勢や個々の幸せを願っていたとしても
奥深い依存心に気がつかないと、犠牲やコントロールで
ビジョンそのものが愛を得ようとする手段になってしまう。

とても無意識的に。

それはビジョンではない。
自分が愛されたいだけなのだ。
人をどれだけ励まし愛を注ぎ学びによって相手が変わっていったとしても。

変化をした相手からのフィードバックで自分を愛しているのだ。


その時のわたしには何も見えなかった。
ただ心の空間をポカンとしていた。

ただ
愛することも、生きることも
今ここからの一歩なのだと思った。



その状態に間髪いれずに飛び込んできたこの映画は
なんだか人生を全肯定されたような気がした。


最後までこの映画を観ると、松子が

「不幸でも、不幸でも、愛らしい」

と思う。

まるで神の目でみているかのような錯覚さえ起きる。


名作漫画と言われる 『自虐の詩』 にも通じるだろうか。


今の自分が不幸だと思えば自分を幸福にしたいと思う。
そして時には幸福を望めば望むほど、
自らは不幸なのだと無意識にその思い込みを強化をすることもある。

そして焦って幸せに手を伸ばし、イタイ状態を顕わにする。


「あぁでも・・・・それでもヨカッタンダ」
と映画を観て思った。


私はここのところ同じオラクルカードをずっと引いていた。
『 MUSIC 』 である。

その意味ずっと分からぬ数ヶ月だった。

でもこの映画を観て分かった気がした。

ミュージカルのように松子の人生が歌われた。
そして出会った人々が映しだされた。


生きていれば
多くの出会いと関わりが
影響しあいながらなにかを分かち合い続ける。

それは確かにメロディーの連なった音楽のようだ。


この人生でいいじゃないか。

ことさらに変えようとせず。


殊更に」という言葉は好きだ。否定形で使うわけだが。

ことさらに嘆かず、ことさらに求めず。

諦めとは違う静けさが心に聴こえる。


幼子の心で健気に求め続ける不幸な愚かささえもいとおかし。

不足があると思えば人生に足らないものがあると思って埋めたくなる。
そしてそれが満たされなければ生きていることが未完了な気持ちになる。

だけれども。

それ自体が人生だったのだ。
自分の愛しい人生だったのだ。

だからこれからも過去を変えようとすることなく
不足を埋めようとすることもなく
この人生を歩めばいいのだ。

歌うように。
これもまた一人の女性の命の歌なのだと理解して。


人生というアートは趣きが深い。
ある画家の描きたいのに描けないという葛藤そのものが
誰にも描けないその画家だけのクリエイティビティだったりする。

 
この人生を生きている。

それが人生のクリエイティビティだったのか。



生きたいんじゃない。

わたしは

生きているんだ。




生きるという学びは尊い。




松子から

それを教わった。






私は


生まれてから


ずっと


この人生を


歌っていたんだ
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by olivelight | 2009-10-08 06:11 | 感じたままに
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