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学び
こども福祉の充実は
庇護されない時代の子どもがいたことが背景にある

心に重いものがたまりながら
あまり引っ張りたくなかったので大学の『子ども福祉』の単位修得試験を
1日余裕を持ってオンラインで受けた

私には珍しいことだ




今回は教科書を読んでいても頭に入ってこない感じがする。
どうも自分の心と重ねてしまい、何かが胸に溜まっていくのだ。

もんやりとしたまま、それでもいいやとテストを受けた。
きっとなんとかなるだろう、と。

結果としては、改めて試験を通して様々な法改正を学んだ感じ。
そして児童やその親に関する法は、今もまさに生まれつつある発展系の
闇と灯りの混在化したもを感じた。

テキスト巻末に戦後すぐからの印象的な子ども福祉に関する
事件や法の改正が2007年まで載っていた。

それを眺めていると自分が子どもの時や思春期、青年期に
印象に残ったニュースなども載っていた。

時代という大きなうねりの中で、子ども達のあり方は
大人のストレス状態を反映して変化している気がする。

子どもという無意識優位の時代に受け取らなければならなかった
心身の痛みを、その時にできることの精一杯を無意識的にして
生き延びてきている人々がいる。

子ども時代の体験が無意識的であるからこそ
大人という生き方を意識的選択していく時代に
個人の生き方が創造される。

無意識優位のその時代に、強烈な否定体験をすれば
大人になってからも軽やかに意識を解放するのは簡単ではない。
また、返ってその自分を否定するように明るく振舞うこともあるかもしれない。
他、勉強を頑張ったり、なにか認められる術を得ることに賢明になるかもしれない。

いずれにせよ無意識的な体験の認知が、無意識的に今現在の行動に深く影響していると思う。

そこに意識的な働きを、肯定的メッセージで運んだ場合は?

20代の頃の私は、そのようにしていた。
自分の気持ちだけでは自分を支えられず、でも日々を生きることはストレスで
当時見習いで行っていた精神系の病院に通勤するために毎日マーフィーの易占の言葉をノートに書きしたため、常に読むようにしていた。易を学んでいた私には、易と自己啓発の絡んだその文章が当時丁度よかった。

ある程度若いと体力もあってストレスでどうしようもなくても、そのようになんとかしてどうにか倒れる事無くいけたが、アトピーがものすごく悪化してどうにもならず辞めることになった。今思うと辞めたくて身体に出ていたように思う。

生きることは戦いだった。
今私がウツになり動かなくなったことは
全うなことのような気がした。
今書きながら。

そしてその状態でしか学べない学びを沢山受け取った。

一つわかったことは

”よくなる”

ということをいかに手放せるかだろう。

よくてもわるくてもどちらでもいい。
自分は自分なのだとゆるやかに思える。

「地味にコツコツ小さくゆっくり」

こう思えたら、もうぶれることも無い。
そして逆説的だが、そこには変化しかない。
コツコツやジワジワは焦りもないので
いつでも自然な自己一致があり
無理のない穏やかな変化が生成され続ける。

すると  「 気 楽 」 なのだ。

自分の心を感じながら歩んでいても
グッと動けなくなる日はまだまだある。
それでも、そこにある無意識の意図と共にあるとき
じわっと変化していく内面を感じる。

スキルが日常的なものであるほど違和感無く
呼吸のように、自らにそれを与え、時に創造している。

自然な変化とは
種から何かが実るように
もしかしたらそれは大きな森になる
小さな種なのかもしれない

創りだすヴィジョンを手放した時に
生成されるヴィジョンがある

自分の名前をあえて自分で言葉にしなくても知っているように
あえて言葉にしなくても消え行かないように感じられるもの

変化とは
自然の営みに似た命の姿だろうか
命はそのままの姿で成長し変化する働きを持っている

変化を手放した時に生まれてくる命の流れもある

色んな花や樹があるように
色んな在りようが混在するのだろう
この地球という星の生命体達のように


最近の私は葛藤をし続けていた親に
当たり前に自己を主張し
境界を踏み込んでいる場合はNOを言い
だからこそ親の言葉にも耳を傾け
互いに対等なのだと思える

その時に
感謝できるものと
感謝できないものの境界も見えてくる

曖昧にすべてを受け入れることは優しさではない
それは相手を見下している
対等な人間というよりも
未熟な人格者として
こちらが優位に相手を”許そう”としている

私はそんなことはやめた
私の未熟さのままに私を見せ
それをののしられても時に平然と、時に激しく感じているものを伝え
どんなに無意識的にコントロールをしようとされても
良い娘になりたい役割を降りたら、自らに正直に
コントロールをスパッと拒否していた

頭では簡単ではないものが
けれども
それは起きたのだ

いかにも変化が起きているという現われだろう

そしてようやく母と私のバランスが少しずつ生まれだしている
私のほうもそのバランスをコントロールしないこと
本当にそれが大事なのだ

母に認められることをなきながら手放した時もあった
「私が死んでもいいのか!?」と聴いたら
「なってみみなければ分からない」と言われた
わりと最近のこと

そうして私は親を離れることが出来た
相手をもう変えようとしなくてよい

親も親のままに
私も私のままに


ただの人間同士

自分もただの人間

その中で起きている事柄が淡々と存在している

それをただ自分の心のままに
痛みは痛みのままに受容する
その時に養われているものが
成長というような気がする

我慢でもない
意識的な肯定でもない

受容の果てには
無意識的なリフレームが沸き起こる

それは素の自分から生まれたもの

起きている事柄をそのまま受容するたびに
楽になっているのだ


その時
飾らない自分でいられることは
なんとも心地よいのだ




誰かと関われば
生きていれば
何かに影響を受け
何かを感じて
何らかの認知が
無意識的に生成され続ける

それが人間の生きている仕組みなら
私は自分が感じてきたことこそが
自分自身への学びであり
それがどこかへ続く扉なのだろう

どこか遠くに扉があるのではない
私の中に扉はあるのだ



テキストにこのようなことが書かれていた

「とかく児童は弱い存在としてとらえられる。(中略)しかし
一個の社会的人格を持っている存在である」


ただ可哀想だと保護するのでもなく
優しさを蒔けばいいのでもない

一個の社会的人格と関わっているという自覚
それは子どもであっても大人であってもそうなのだろう

わたしは
ウツになってよかったと思う
そうでなければ私はウツの人を弱者であると思っていたかもしれない
何かまだ達成されてない未形成な人としてみたかもしれない
「未だそこにいる人」というように

そしてそれは
その存在と命への無意識的な侮辱なのだと
今ならわかるのだ

相手を弱い存在としてみることは
満たされていない幼子だとみることは
制限を無意識的に与えていることもある
また見ているほうはそのフレームの観点でしか
相手を見れなくなったりするかもしれない

自覚的に気をつけておきたい

だからわたしは
ウツにさせてもらったのかもしれない
ウツになることを選んだ魂なのかもしれない

尊い学びだ

症状というものが無意識的なバランスであると知る時
何かを治そうとするのではなく
バランスからバランスへの移行なのだ理解する

わたしは
今の自分でいてくれた自分自身に
深く感謝をするのだ

母のことも
兄のことも
家族のことも
子どものことも
離婚のことも
幼いときの不合理な体罰やののしりも

私は
今も苦しみながら
人生を創造している

苦しむことが悪いことではないと受け入れられるほど
成長したことは学びのおかげだ


変化を手放したら
蝶が生まれた

「 Transformation 」


自己受容ということは
奥が深いなと改めて思う

統合に時間が掛かる方が
その生命体の無意識のなにかの願いに
即していることもあるのだろう

時間をゆるやかに抱けるようになってきて
私は呼吸が深くなってきたなと思う

変わるためではない
目標のためでもない
何のために生きているか分からなくても大丈夫だ

そんな風に思えている今が
私の解放なのだ

すると
自分を変える必要が無いから
ただコツコツと地味に自分の心の調べと共に
歩めばいいと思えるのだ


普通に苦しみながら
普通に悩みながら
起きている事をそのままの姿で受容して

それによって成長し
自己が創造されている


NLPで学んだことやカウンセリングを受けたことや
ボディワークやヒーリングやスピリチュアルや無意識や・・・
様々な今までの一つ一つの学びが今の私を支えている
なにもかも分けることなどない
どれもが私という個人の中でバランスを担っているものなのだ



私は 生かされているのだ と思えるようになった




学びに

感謝だ







いま、ちょうど満月に入ったのか。。。。。
by olivelight | 2009-06-07 04:19 | 学び
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