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『左利きの女』 1978 西ドイツ
30年前に作られた映画をDVDで観た。

『左利きの女』 西ドイツ 1978

こちらのページが詳しい。
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/010320.htm

殆ど台詞のない映画だった。
『ベルリン天使の詩』の脚本家の初演作と知ってなるほど、と思った。
これは日本では未公開の作品だそうだ。




無言の中に、なんとも言えない日常のユーモアが淡々と入っていた。
クスッともピクっともしない日常の中で消えてゆくそれは、不思議な共感だった。

最初にそう感じたのは、夫に別れを突然告げた主婦が、家に帰りやにわに子どもの遊び道具の小型の竹馬を出して、無言で感情的に憤りながらとにかく乗ろうとチャレンジをして、数回目に乗ったシーン。
竹馬に乗りながら部屋を動く。感情が高ぶっているのが伝わってくる。
それを二階から降りてきた8歳の息子が見つけて、ただ見ている。

妙にツボに来た。

それは滑稽に見せようという演出も何も無い。
カット割りも30年前の映画らしく、シンプルだった。
竹馬に乗る彼女の何かを追って迫っていくようなことも無い。
ユーモアを映そうという雰囲気も無い。
さりげなさ過ぎるくらい平凡に
竹馬に乗る、感情を高ぶらせる無言の主婦を映す。

そんな淡々としたものが台詞のない画面に時々流れた。
それは本当に日常の重さと軽さをうまくあらわしているように感じられた。

終わりもこれと言って終着点を顕著に見せているという印象ではない。
しかしまたそれが良かった。
そんなにはっきりした人生の日常が存在するものでもないしな、と。
そしてそんな日常がやはりドラマなんだよな。

女性が夫と離れて一人になったからといって奮闘している風にも映さない。
始めた翻訳の仕事がうまくいかないイライラをそのまんま出したり。そうかと思えばドレスアップして女性として鏡に映る自分に微笑み、その姿のままいつもの部屋で翻訳の仕事をしたり。終始無言。

女性の取り留めなく揺れ動くものを、よくぞ無言で鋭く出しているなと。淡々とした演技に見えるからこそ深々としたものが現われている。画面に奥行き他空気を感じた。

そして古き懐かしき映画の色合いにホッとした。
大きな展開のない日常。さりげなくシュールなことも表現していたり。
だが抱えているテーマは男女の思いが重みとなっていて。

面白いかどうかはかなり人それぞれだろう。かなりジワっとした映画だ。
もう観ないとは思うけど、観てよかったなとはとても思う。
家の中がシーンの多かったのが印象に残っている。

これを見終わった後、そうそう、そうなんだよな、と納得感があった。
ドイツの女性だからだろうか。淡々と自己があり、取り立てて説明のない、揺らぎの少ない感情表現の中に、ずーっと流れ続ける重厚なものも感じた。
それは「自分」ていうものかもしれない。

夫のため、子どものため、という空気が殆ど無い。ないがしろにするでもない。
夫との時々あるやりとりはひどいものがあったが、それでも女性は落ち込みながらも淡々とした風情をかもし出して生きている。そして昔の男や、新たな出逢いが来たりするが、やや揺れても概ね淡々としている。

それは関心が無いというより、ずっと「自分」にフォーカスがあたっているからだろう、て思えた。

日本の女性を描いた映画だったら、たとえ現代を描いてもこうは書かないだろうなと思う。誰かのため、なにかのため、自分のエネルギーを揺れながら注ぎ続ける感じが、日本の女性を描いた場合に想像される。自分の焦点を探していても、それは「何に自分の焦点をあてるか」という視点になりそうな気がする。

このドイツの主人公の女性のように、ここまで淡々と自分を求めては描かないだろうなと思う。かといって周りに冷たいというわけではない。周りもまた、子ども自身も淡々といるのだ。みながそれぞれの位置から普通に生きて日常が生まれているというか。互いの世界が普通の折かなっている。自他の境界を持ちながら。

その感じがとても心地よかった。途中うとうとするくらい静かというか淡々としている映画だが、ところどころなんとも言えず面白かった。子どもの喧嘩のシーンなどちょいとビックリよ。


映画を観終わり、久々に自分の作った石鹸で顔を洗いたくなった。
洗面所で顔を洗った自分を見ると、「あぁ私も女性なんだよな」て思った。
それまで漠然と「女性」のイメージがあって、自分はそれとはズレている感触を持ち続けていた。女性というものが、自分の外側にあった、という感じだろうか。

しかしこの映画を観たら、「そうか淡々と自分であればいいだけなんだな。わたしもまた紛れも無い一人の当たり前の女性なんだな」と感じられた。日本人女性のような気質は多くないかもしれないが、このドイツ人女性の表していたものは、私の中にも見つけられる感じがした。

淡々と自分である感じ。母親であったり、別居中の妻であったり、女友達であったり、父に対しては娘であったり、感情を抑えきれずに歩き回るただの自分であったり・・・・色々なシチュエーションが主人公の女性の周りにはある。だが総じて彼女はそのままの彼女なのだ。母だから、妻だから、というものを殆ど感じず、浮き彫りになるのは、無言であるからこそ静かに見えてくる彼女それ自身だ。


顔を洗って、わたしもまたこのままでいいのだと思った。
私から生まれるものが、一人の女性のそのままなのだ、と。
私という女性は遠くにいるのではない。今ここで顔を洗い終えた私なのだ。

当たり前のことが腑に落ちると、やけに安定する感じがある。
きっと幻のどこにもいない「女性像」と自分を比較して
求めたり卑下したりなくても済む「楽」な状態になるのだな。

洗面所からベッドのある暗い部屋に戻る。
窓からは夜明けの青い光が少し見える。

そろそろ限界かな、というデコボコしたソファーベッドに立って思った。
この頃やけに片付けられない重みを感じていたこの部屋。

違う、そうじゃなかったんだ。

わたしは「変わりたくない!!」てこの部屋で叫び続けていたんだ。
無意識の叫びが、この状況だったんだ。

厚い厚い鉄板のようなものに阻まれているような感覚。一つも物を動かせない妙な感じ。部屋が片付けばどれだけメリットがあるかなんて10年以上見つめ続けてワークもしている。何度も気づいて、やって出来ないのだ。そんな簡単な問題じゃない。そこでもがいている気分は、理解されない孤独でもあった。

どれだけ「変わろう」とし続けていただろうか。
兄が亡くなってからだから12年になる。

だが、解った。

私は変わりたくなかったんだ。

色々なことを受け取り感じ続けていた自分を変えたくなかったんだ。
そして今まで生きてきた自分に誇りを持っていたんだ。
私は私の感じ方を愛していたんだ。
そこから見える世界を美しく感じていたんだ。
自分で在るから感じられる色々なものが自分の豊かさだと知っていたんだ。
そして自分の目線で物事を見つめ、追求し究明し続けて生きたかったんだ。

見えたもの、感じたものを大事にして深めていくことを
この人生で望んでいたんだ。
当たり前の日常を大事にして、そこから見える世界を感じながら、
今このときを生きていることを滋味深く楽しみたかったんだ。

私は私でいたい、変わりたくない。
それが私の「アウトカム」だったのだろう。

変わろうとするほどに症状が頑なになる意味がようやく分かった。
変わることを目的とすることに違和感があったのも納得がいく。
やはり理由があっておきていたことなのだ。

そして意識の私はそれが分からず
わたしを前向きに変えようとし続けていたのだ。
だから無意識は強く強く私を引きとめていた。
もしも意識的な望みをかなえれば
私の奥深いところにある心や魂からの望みは叶わなくなる。


「 変わらないで、変わっちゃいけない、そのままでいて、」


自分の感じているままを感じたい。
それが私の深い望みだったのだ。
それは解っていた。今、出逢った。

変化をしない、というのはもう何も発展しない、という意味ではない。
変化は受け入れる。
けれども変化をさせようとはしない、ということだ。

生きていれば季節が変わるごとく変化はついて回る。変化こそ一定でもある。
変化に柔軟になれていれば、それは無理のない安らいだ成長の予感がする。

だが意識的に意図を持って変化を計画すると、私の場合は、やってくる自然な変化とは異なる状態になるのだろうと予想する。つまり季節の変化があっても、自分は真夏でいたいと無理をするような。

うん、それは解る。「こうありたい」といのが、いつの間にか「こうあらねばハッピーじゃない」という風にそっと摩り替わっているときがままあった。

目標を立てていくのがあっている人がいる。
そうで無い人がいる。

だが一つ解るのは、変容は受容の深さに比例している、というもの。
私個人ではそうだ。

受容というのもまた「受け入れなきゃ」とやっているときは「ネバなら無い」状態なので、意識的な努力となり、受容とはかけ離れてしまう。

淡々と日常のシュールさを享受しながらここにいたいと思う。

もう自分を変化させようとはしない。

起こる変化を受け入れていくのだ。

意識的な変化をやめ、無意識に寄り添う。

症状は意識的に変わろうとする努力を、無意識の叡智の力がやめさせることを教えてくれるもの。私の場合はそうであった。

「変わりたくないから変わらなかった」

気がついてみれば本当に当たり前のこと。
症状がコミュニケーションしていたこと。

変わる必要はもうない。
変えようともしない。

ただ好きなように工夫しながら生きたいだけだ。
それは結果的に「変わる」だろうけど、「変える」ことでは全く無い。

人に強制的に変えられたら誰だって嫌だ。
それが前向きなことであっても、だ。

「変化」をアウトカムに持っていく限り、わたしの症状は固着していた。
「このままの自分の感じ方を尊重する」ことだけが今の私の大事なことなのだろう。

目標を手放すことが目標だったのだ。

外は雨が降っている。
逆説の雨が私にも近頃振っている。

逆を考える。

それはなにかの大きなヒントのように感じる。

意識的に前向きになることよりも、「自分をないがしろにしていたなんて、なんて自分はバカバカしいことをしていたんだろう」と、深く深く感じたいだけ感じてしまったほうが、元には戻らない深い変化に繋がっていると感じられる。自分を責めてしまってはいけないが、そうではなく、ただ深く納得と実感があれば、もう同じ振る舞いをしようという気が意識しなくても起こらないと思われるのだ。

いろんな自分の感情を感じた上で、選択があるのだろう。

無理をさせていたのだな、と解った。
自分に。
変えようとし続けていたのだから。
変わったほうがもっと好い自分になれると思い込んでいたのだから。

違う、そうじゃない。


ごめんね
ゆるしてね
ありがとう
あいしてる


この自分が好きなのだ。
行動や振る舞いの奥に、もっと自分の本質があったのだ。
片付けられないことや鬱なんて、その本質の価値に比べたらどうってことないことだったのだ。
いや、片付けられないことや鬱のおかげで、本質が守られていたのかもしれない。

本質は命 なのかもしれない。

私は「ここにいるの!」と私に訴えていたのかもしれない。

そうか、私は私に存在を「認めて」欲しかったのだな。



私はここにいる。
私を認めよう。



それはまさしく映画のラストの字幕スーパーに書かれていたことのように思う。




私は私を変えたかったのではない。





私は私を生きたかったのだ。






ちなみに私は右利きである。
by olivelight | 2009-03-20 08:18 | 旅。。。映画
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